自己紹介

名前

熊谷 義貞(Yoshi-Kumagaya)

生年月日

1954年1月31日

職業

17歳から25歳までヤマハ発動機㈱販売会社長野営業所に勤務、その後1979年、25歳から小県郡東部町(現:東御市)にオートバイとサイドカーショップのクマガヤオート(KUMAGAYA AUTO)をオープン。

オートバイ販売修理と市販社用のオリジナルハンドメイドのサイドカー制作を主な仕事としながら、国内のMCFAJサイドカーレースに出場3年連続チャンピオン獲得。

1984年海外遠征前 FISCOにて!英国製MGFにヤマハTZ500搭載

国内の競技団体では(MCFAJ)では入手不可能だったインターナショナル競技ライセンスを、イギリス(ACU)の競技団体に掛け合い取得、資金調達や渡欧準備に手こずるも、遅咲きとなった30歳で(1985年)サイドカー世界選手権(WGP)出場を目指してイギリスを拠点に遠征。

42歳(1996年)までヨーロッパでの現役を続けた後は、二輪車部門では国内最大ブレーキメーカーNISSIN(日信工業㈱)現 HITACHI Astemoのレーシングサービスエンジニアとして帯同、オートバイの世界選手権シリーズ(Moto GP)に60歳まで(2015年)携わってきました。

ショップオーナー、レーシングドライバー、チームオーナー、そしてWGPエンジニアという「2足のわらじ」ならぬ「4足のわらじ」を履いてのハード、そしてアクティブ活動を続ける!

17歳から60歳までモータースポーツの世界に携わり、60歳を期に日本を拠点に戻し、現在は自社のガレージで2輪車とサイドカー、四輪の旧車のレストア(トヨタ系)や空冷ポルシェの整備などを趣味と実益を兼ねて忙しい日々を送っています。

経歴紹介

10代(1970年~73)

15歳よりヤマハ車を操り地方選手権、そして中部6県シリーズ、全日本選手権に参加し、一時期は90cc、125cc、250cc、オープンクラスと4クラスに出場!

いつかは頂点にと全日本選手権や地方選手権を転戦し、そしてプロになれる事を夢見て日本全国のレースに出場していましたが、度重なる膝の怪我に悩まされ、途中23歳でモトクロス界を引退。

この頃には既に両膝の半月板と靱帯を損傷しており、丁寧な治療を怠ったことで日常生活にも影響が出てしていました。

モトクロスに夢中になっていた10代

河川敷でレース
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1974年(20歳)エキスパートジュニア昇格後 - ヤマハトレールランドにてYZ250Mを操る
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20代(1974年~)

膝の怪我の影響もあり、モトクロスを諦めかけていたのですが、レースに対する情熱を消すことができず、何か他に出来るモータースポーツはないかとあちこちのサーキットに出向きました。

その頃に偶然に出会ったレーシングサイドカー。

独特な操縦スタイル、地面すれすれの異形のフォルム、スピードとパッセンジャーとのバランス感覚、手作りのマシンでの総合的な技術力が必要とすると緊張感のあるサイドカーレース、他の競技では味わえない特別な感覚を覚える!

メーカー争いも無い、メジャーではない特殊な世界にどこか惹かれるものがありました。そして「これだったら自分に出来る」と確信、膝への負担はオフロードのモトクロスよりも大幅に軽減出来そう、自分にとっては未知の世界への挑戦の一歩となる。

20代前半でサイドカーレースデビュー。初めは市販車ベースのサイドカーレースに参加していたのですが、次第に本格的なレースに挑戦したくなり、仲間たちとハンドメイドでレース用のサイドカー・レーシングニーラを製作。

当時は国内にはサイドカーメーカーは無く、情報も皆無に等しい状態でしたが、専門雑誌や四輪のフォーミュラF3やFL500を参考にして他車を見よう見まねで手作りで一からフレームから作成し、スズキのGT750エンジンを載せて1年がかりで完成させる。

25歳になった頃、それまで勤務していたヤマハ発動機㈱販売会社を退社し、レースに専念すべく地元にバイク&サイドカーショップ「クマガヤオート」をオープン。

バイク販売修理の傍ら、一般公道用のサイドカーをマスター型からFRP成型しハンドメイドで製造販売を仕事しつつ、趣味でサイドカーレースに参戦するという日々を送っていました。

当時は国内の経済状況が上向きで、クマガヤ製のサイドカーもバックオーダーで13ヶ月以上待ちというような状況でショップの経営も順調でした。

そして《クマガヤ サイドカー》の知名度が知れ渡った1980年代前半には、本田技研工業《HONDA》様より皇宮警察護衛用GL 1500サイドカーの試作のフレ-ム製作の依頼を受け、セッティングからテストまでを自社にて完成させました。

今では一般公道では見る機会が有りませんが、《KUMAGAYA》の技術は現在も皇宮警察にてパレードや護衛などで活躍中です。

また、ある時には、北軽井沢の浅間牧場茶屋さんから「観光客用馬車」の作成依頼も頂き、4輪ディスクブレーキ付きの馬車を参考写真のみで図面をお起こして制作した事もあります。

20代後半に近づいてくると、日本でのサイドカーレースも常勝していたものの「もっとレベルの高いレースがしたい、自分の力を試してみたい」という思いが強くなり、最高峰世界グランプリ(WGP)のサイドカーレースで戦いたいと言う思いが募ってきました。

当時の国内レースはアマチュアレース団体MCFAJ、そしてFIM公認MFJのプロ団体がありましたが、サイドカーレースは国際レース協会FIMの傘下ではないために国際ライセンスが取得できない環境にありました。

そこで、クマガヤオートのお客様でもあり、後に私の膝の主治医となって頂くDr、HOSHINO(整形外科医)とサイドカーレースの本場イギリスに視察に行くことになる。

1983年 渡英の主な目的は、世界グランプリのイギリス大会の下見観戦、そしてイギリス製のレーシングサイドカー(MGF)の輸入買い付け等でした。

イギリスGPのシルバーストーンでレベルの違いを目の当たりにし、日本のそれとは全く違う雰囲気に感動し、益々世界挑戦したい、自分の実力を試してみたいという情熱が強くなっていました。

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1977年頃(23歳) - レース用のサイドカーの作成
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30代(1984年~)

30歳を迎えようとなる1983年頃、ひそかに抱いていた海外遠征の夢を叶えるために、がむしゃらに働き資金集めに翻弄する毎日でした。

そして、遅咲きながらどうしても世界選手権へ挑戦したい思いを実現するために一念発起。

当時は英語力の無かった私は、膝の主治医である東京医科歯科大勤務のDr,HOSHINO先生に協力して頂き、イギリスの競技団体のACU(Auto cycle union)に手紙を英文にて競技ライセンスの申請を行う。(前書きの通り)

数ヵ月後にACUよりライセンス許可が下りたことを機に、そしていよいよ1985年に夢の実現に向けて家族で渡英する事に。

当初は少しでも自分に可能性のある言語、英語圏であるイギリスを拠点に選択、ヨーロッパ選手権で年間総合3位以内を第一の目標とし、未知の世界の世界グランプリ出場権獲得に向けてスタートを切りました。

当時ヨーロッパ選手権で総合3位以内にならないと、翌シーズンからの世界選手権への参戦が出来ない為、多くのレースに参加しポイントを稼ぐ事がハンディーのある遠征組の我々Japaneseには必須でした。

1年目の1985年はドーバー海峡近くの町、KENT州のDealをベースにイギリス国内選手権や地方選手権、ヨーロッパ選手権に出場、合計で23レースに参加。

結果が出始めた2年目の1986年、合計出走レースは30レースにものぼりましたが、ヨーロッパ選手権ではわずかに1ポイント差で年間総合ランキング2位になり、翌年から念願だった世界選手権フル参戦へと進みます。(英国選手権は1日に2レース消化)

86年もスポット参戦で世界選手権に出場する事もあり、ワイルドカードで出場出来た雨のベルギーGPで10位入賞を果たしましたが、フル参戦は翌年の1987年からとなりました。

渡英3年目の87年からは家族は日本に残り単身で遠征。パッセンジャーはイギリス人と組み英国のドーバー海峡近くのDealを生活の拠点にして、世界グランプリへの参戦が実現したのです。

世界グランプリフル出場は1987年から始まり、ベンツのトタンスポーターにキャラバン(キャンピングカー)を引っ張り、ヨーロッパ大陸の大移動がスタート。

10年間の世界GP出場で出場91グランプリを消化、90年の世界選手権ベルギー大会Spa-Francorchampsでは初めて世界選手権で3位表彰台を獲得する事ができました。

30代

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1986年 - ヨーロッパ選手権チェコ・スロバキア大会優勝
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40代(1994年~)

1994年のホッケンハイムリンクで行われたドイツグランプリでは、決勝レース中に多重クラッシュに巻き込まれ、相棒であるパッセンジャーのサイモン・プライヤー選手(英国)を亡くしてしまった不幸な出来事もあります。

時速250㎞前後でのクラッシュだったので、私自身も数十センチずれていたら他車の車体の直撃で、かなりきわどい状態でした。

マシンも大破し、一時は現役を引退しようかと迷ったのですが、ライバルチームの友人達や支援者の皆様の後押しもあり、現役を続ける決意をして42歳の1996年まで現役を続行。

引退間際の1995年より、長年にわたってブレーキパーツのサポートをして頂いていた日信工業(NISSIN)から2輪の世界グランプリチームへ供給しているブレーキのレーシングサービス兼コーディネーターの業務を依頼され、現役最後の2年間はレース活動を続けながらレーシングサービスの2足のわらじで世界選手権の裏方として携わる事になります。

ドイツGP.ホッケンハイムクラッシュ映像

40代

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1995年 - サイドカー世界選手権オランダ大会(アッセン)
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50代(2004年~)

50代になっても引き続きMotoGP全戦でのNISSINレーシングサービスに帯同し、欧州を含め、アジアやアフリカ、アメリカ大陸、中東等世界中を転戦してきました。

レース同様全力で世界の頂点を目指し、レーシングサービスとしてオートバイ世界選手権(MotoGP)に関わって来ました。

厳しくハードな仕事でしたが、憧れてきた世界での活動でとても充実した50代を過ごすことが出来ました。そしてサポートして頂いたNISSIN(日信工業㈱)関係者には大変お世話になりました。

50代

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2010年 - motoGPで、レース前に青山博一選手と(Photo By H.Takeuchi)
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60代(2014年~)

2014年の60歳を期に、30年間続けた世界を転戦するWGPから離れて拠点を完全に日本に戻し、本業であるクマガヤオートのガレージで仕事をする事を決意。

約30年間という長い年月に世界中を旅した事で、時間的に不規則な生活のツケがきたのか消化器系の病を患い、一時期は好きなお酒も今までのように飲めなくなってしまいました。

60代前半

帰国当初は体調が回復するまで無理をせず、家庭菜園や自分の好きな旧車再生の趣味に没頭していましたが、最近ようやく体調も安定し、少しずつ仕事も増やす事が出来るようになってきました。

今までも自分の好きなモータースポーツ界の仕事に従事出来てきましたが、これからも大好きなオートバイと車の再生「妥協しないもの造り」に情熱を注いでいこうと思います。

60代後半

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最終現行モデルKUMAGAYA MKⅡ-GP - 最近のツーリングはこの愛車で走ります
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2022年12月現在、知り合いや過去販売のユーザーさん達からの仕事依頼が多い中、残された仕事のバックオーダーも残すところ数台のみとなり、これを最後に仕事からは一線を置く事にします。

今後、出来れば個人の趣味に没頭出来るように、体調のバランスを調整しながらゆったりとバイクと車と触れ合っていきたいと計画しています。

※一部写真提供、WGPプロカメラマンH,TAKEUCHI氏。